送り盆

実家のまわりは一面みどり色


最近ちょいちょい帰っているものの、お盆なので実家へ。昼頃駅に迎えに来てくれた親に地震のことを聞く。家に帰ると隣の町内の家が潰れていた。昼ご飯にぼたもちを食べて、少し昼寝。本当は今の時期「おはぎ」というのが正しいのかもしれないが、炊いたもち米をあんこやきな粉で包んだそれを、わが家では一年中「ぼたもち」という。おそらく近所の家々でもそれは一年中「ぼたもち」と呼ばれている。送り盆には小さなきな粉のぼたもちをつくり、その他いろいろな飾りや供え物とともに先祖を送り出す。
今年は迎え盆も中日も東京で遊んでいて不在だったので、せめて送り盆だけはきちんと参加。夕方少し涼しくなったので、家の仏壇の盆飾り一式と花や供え物をもって、近所の用水路へ。三角鍬で地面を少し整えてから、持ってきたものを並べて、線香を焚いて水を撒いて送り盆終わり。また来年、ということで家に帰る。この時期の実家では、昼間のあいだはとにかくセミ。家の庭のあらゆるところからセミの鳴き声が聞こえる。「あらゆるところからセミの鳴き声が聞こえる」というのでは全然あの感じを説明できておらず、ものすごくたくさんの重なり合ったセミの鳴き声のすき間からその他の音が聞こえてくるような、世界全体がセミの中にあるような、とにかくセミ。近所のマンション工事の騒音だったらきっと我慢ならない音量でも、セミだとどうにかなってしまうというのは、どういうことなんだろうと、ふと思う。
夜は家の野菜を天ぷらにして食べて、親の長い話などを聞きながら過ごす。親の話を聞きながら、あえて「その話は前にも聞い」とは言わない。話の内容が同じだとしても、その話をしているその場の状況はその話を前に聞いた時とは違うわけだから、たとえ同じ話を聞いたとしても、その話を聞いている僕がその話を聞きながら考えることは、案外前と同じにはならない。
親が寝てしまったあと、静かになった家の縁側から庭を見てみたら、庭も意外なほど静か。つっかけをひっかけて庭に出てみる。夜に鳴く虫の鳴き声はセミよりもずっと遠くから聞こえてくる。昼間庭全体を覆っていたセミの鳴き声もところどころ。ただしその鳴き声に昼間のような無茶苦茶さはない。夜に聞こえてくるセミの鳴き声は、おそらくその夜で命を終えるような、絞りだすような、そんな鳴き声。そんな鳴き声のセミだけが夜に鳴いている。