時計見逃し聞き逃し

仕事中、ふと気がついたら10時50分過ぎ。慌ててしかし落ち着いて、世田谷文学館に電話をかけてみたものの、10時からという電話予約はその時点でもう「定員いっぱいになっておりまして…」とのこと。結局来月末の小島信夫保坂和志の対談は見られないことになった。
ここ一ヶ月くらい、その対談のことを知ってからは事あるごとにそのことを考えたりしていて、「どんなんかな。どんなんかな」と考えてみるごとに自然と期待も高まってきていたし、ちょうど世田谷文学館では今『花森安治と「暮しの手帖」展』をやっているから、ついでといっては失礼だけれどその日にその展示も観てこれる、など考えたりもしていたのだけれど、そういう3月25日の対談にまつわるいろいろを、ここから違う方向へ考えていかなければならなくなった。
例えば「チケットが取れなくて悔しい」とか「対談が聞けなくて残念だ」とか、そういうことも考えないではないけれど、それではもうそこから進みようがないし、そうして収めてしまうのはなんだかもったいなさすぎる。「進める」だとか「違う方向」だとか、言ったら全部ただの「妄想」なのだけれど、やり方進め方によってはその妄想が僕の中での満足度という一点において現実をこえてしまう可能性だってないことはないと思うし、それは出来ないことではないとも思っている。