葉山の夏2006
朝、一緒に外出。妻は北へ、自分は南へ。海へ、つまりは葉山へ、電車で向かう。
途中、北鎌倉の駅のホームで見かけた女の子二人とその両親の家族連れ。これから観光だろうか、平凡な身なりの娘二人と母親に比べて明らかに異質な感じの強面の父親が着ている黒いTシャツには銀色の糸で「JOKER」の刺繍。
逗子駅に到着、バスに乗る。海岸の手前で降りて「げんべい」で新しくビーサンを購入し、スニーカーから履き替える。森戸の海水浴場へ出てから、砂浜や海岸沿いの道路やその裏の路地などをウロウロしながら歩いていくと、見覚えのある風景の中にも新しい物件がちらほら。なんとなくオサレショップがずいぶん増えている印象。道路沿いにはマンソンがいくつも建設中。そのマンソンのベランダからはきっと目の前に海が見えるのだろうことを想像すると少しうらやましいけれど、たとえ海が見えなくてもいいから、小さな庭か土間というかテラスのような空間のある物件があったとしたら、多少の不便はあったとしても自分はきっとそっちを選ぶ。そういうことを考えながらウロウロと一色海岸まで歩いていく。
一色海岸で「ビールだビール。ビールだビール」と思って、ブルームーンのカウンターでコロナを注文したところで、さっきまで持っていたはずの財布がどこにもないことに気がついて、焦る。そして困る。泣きはしない。ビールの注文をキャンセルして、ポケットや鞄に何度も手を突っ込みながら、来た道というか砂浜や岩場や路地をそっくりなぞりながら蟻のように歩くものの、結局見つからないまま森戸まで戻ってしまう。
歩いて戻っている道中は「きっとどこかに落ちている」とか「きっとどこにもありやしない」とか「カードとかいろいろ、止めるのめんどくさい」とか「免許の再交付が三回目になってしまう」とか「どっちにしてももう帰ろう」とか「帰って家でおとなしくしていよう」とか「明日になったらどうにかなるかもしれない」とか、そういうことをいろいろ考えていて、気持ちはすっかり前向きに帰りのバスを待つ感じになっていたのだけれど、「それでも警察に届けるくらいはやっておくべきかもしれない」とか「そうしないときっと帰ってから妻に怒られる」とか「怒られるとわかっているのになぜやらない、とむかし学校の先生に言われたかもしれない」とか、そういう社会的なことも少しは考えたりもして、そういうタイミングで都合良く森戸の交番が見えたので入ってみたら、誰もいない。誰もいないのだけれど、誰もいないことはないだろうと思って奥に向かって声をかけてみたら、案の定奥から返事があって、中年の巡査部長ポリスマンが出て来て僕を見る。
こちらの事情を説明してみると、とりあえず椅子に座るよう勧められ、その後様々な質問を次々に受ける。出来るだけ早く帰りたい僕はそれらの質問に出来るだけ簡潔かつ明瞭に答えるように努めたかったのだけれど、となりの机で行われている新人ポリスマンと先輩ポリスマンの業務引き継ぎの会話が気になってしまいどうにも集中できない。
結局のところ、質問に答えながらひととおり書類が出来がったところでデスクの向こうの巡査部長ポリスマンの口から出てきた言葉は「実はね、届いてますよ。財布」であって、紛失届けが出来上がるのと同時に僕は自分の財布を再び手にすることが出来たのだけれど、話を聞くと匿名の善意の方が森戸の砂浜あたりで拾った財布を海の家に届け、海の家の人がそれを交番にこの届けたところに僕が現れたらしい。交番の前でうろつく僕の顔を見て「財布の中に入っていた免許証の顔に似ているな」とポリスマン同士で話もしていたらしい。最初から彼らは届けられたその財布が財布を捜して現れた僕の財布だと判っていたというか、確信していたというか。そうでありながら、あえて事務的な対応に徹したポリスマンの行動については、仕事として十分理解できるものであるので文句はまったくないというか、共感できる部分も少なくないのだけれど、そういう経緯を知って財布を返された今となっては「ちょっとくらいヒントというか、手がかりというか、行動なり言葉なりで、自分の財布が届いてることを臭わせてくれてもいいじゃないか」とは思ったりする。というか確実にあのポリスマンたちは僕との一連のやりとりを少なからず楽しんでいたはずで、それを思うとなんだか悔しい。
相手が匿名であるから、拾って届けてくれた善意の方にはお礼のしようも言いようもないのだけれど、とにかく葉山にはいい人がいるということがよくわかった。いい人は葉山に限らずいろいろなところにいるのだろうけど、葉山には特に僕にとって直接的に、ダイレクトにいい人がいる、という意味でいい人がいる。有り難い。
お礼を言って交番を出て、家に帰るのはやめにしてまた海岸線を歩き始める。また一色にあたりまでふらふらと歩いていって、そのまま成りゆきで山口蓬春記念館に入ってみる。丁寧に手入れのされたきれいな庭を歩いていると山から吹き降りてくる風が冷房のようにひんやりしていて気持ちがいい。誰もいない資料室で係の人がつけてくれたビデオをひとりで見せてもらいながらいつの間にか眠ってしまっていたようで、モニターにはさっき見た映像がまた映っている。あいかわらずお客さんは自分しかいない。
記念館を出てからバス通りまで出てみると、前はなかった新しい建物が道路と砂浜の間に出来ているので何だろうと思って行ってみると、それが新しく出来た鎌倉近美の葉山館だった。葉山館には入らずそのまわりをぐるっと歩いて、お腹がすいたので再びバス通りまで出て定食屋に入って焼き魚定食を食べる。おいしい。満足したのでそのまま御用邸前からバスに乗り、逗子まで行って電車で帰る。
葉山には来年もまた来ようと思う。