波乗り運動に見る回転運動とその理想形

映画『Sprout』の中で、時に豪快に時に優雅に波に乗るサーファーたちの姿を観ていると、自然と「自分もあんなふうに波に乗ってみたい」と思ってしまうのだけれど、彼らがどれほどたくさんの経験とそこから体得した優れた技術によってそれを為しているのか、ということをすっかり忘れてしまっていることにあとから気づく。それくらい自然にというか自在に、彼らはボードを操りながら水のうねりをつかまえて、水の動きをボード越しに感じながら〈気持ちよさそうに〉波に乗っている。
もしその気持ちよさそうに波に乗っている瞬間に波が少し揺らいだら、おそらく彼らの身体はボードに乗せている足の指やかかとや足のへりとかでそれを感じて、感じた瞬間にもう体はその揺らぎに対応するために手足を動かしたり体の重心を移動させていて、それはもう「頭で考えてどうこう」というものではなくて、〈反射〉のように体が勝手に動いているという感じなのだろう。そしてまた別の瞬間に「もっと速く」とか「もっとそっちのほうに」とか思ったら、彼らはほんとにその通りに出来るはずで、それは頭の中で考えた運動のイメージを実際の身体を使ってそっくりそのまま再現できるからなのだろうな、と書いてみるとこれはすごく当たり前なことで、それこそが「技術」というものなのだろうけれど、自動制御と自由意志というか、オートマとマニュアルを同時に実現させているようなその感じはやっぱりすごい。
「すごい」ということはわかっても、ではその感じというのが「実際どういうものなのか」ということは、いくら考えてもおそらく駄目で、そうやって〈気持ちよさそうに〉波に乗ることが出来る彼らには、彼らにしかわからない〈気持ちよく〉波に乗るための身体感覚があって、僕がそれを知ることが出来るとしたら、それはきっと僕が彼らと同じように〈気持ちよく〉波に乗れるようになった時だけだと思う。
最近、ルービックキューブで遊ぶことの楽しさを知って、ひとりでよく遊んでいるのだけれど、そうやって遊んでいくにつれて「これを理解したい」と強く思うようになってきた。では「理解する」とはどういうことなのか、理想的な理解のカタチをあれこれ考えたりもしていたのだけれど、〈気持ちよさそうに〉波に乗る彼らの、その頭と体と環境とか、全部が一緒になってある方向に向かっていく姿を観ていて、その理想の輪郭が少しはっきりしてきた感じがしたけど、気のせいかもしれない。