空気が見える人

夜、帰宅途中のバスの中で一昨日買った新潮2月号を読みながら、ふと唐突に「空気が見える人」のことを考えはじめる。
「空気が見える人」は、たとえばその時僕がバスの座席から窓越しに見ていた道路や信号機やその色や看板やビルやその窓や、あるいはバスの中に見えていたつり革や手すりやその数や、そういう今自分が見えているものすべてがまったく見えないかわりに、僕と僕が見ているそのモノとのあいだにあって、僕が決して見ることの出来ない「空気」が見えるという、今の人類とは異なる進化をとげた別の人類のことで、当然それはただの妄想なのだけれど、そういう「空気が見える人」にとって今僕が見ているこの風景はどのように見えるのだろう。
僕にモノが見えるのはモノが光を反射するからで、光を反射するためにモノには密度がいるのだと思うのだけれど、空気が見える人には密度の薄い気体が見えて密度の濃い個体は見えないということは、もしかしたら空気が見える人は視覚において光を必要としないのかもしれない。
「空気が見える人」はそこに何かがあることを、そこだけ何かのかたちだけ空気が見えないことで知覚する。空白が見えて対象が見えない、写真のネガのような反転した世界。おそらく「見える」という感覚も「空気が見える人」と僕とではまったく違う感覚になっているに違いない。じゃあそれはどんな?と、そういうことを考える。
帰宅後外出して大和へ。深夜のデニーズでハンバーグ、その後読書。夜中2時過ぎ、店の外に出ると空からチラチラ雪が降りはじめていた。降ってきた雪が鼻にあたってくすぐったい。