ここからが本番の回転運動

いい加減な態度とはいえ毎晩続けてきたからなのか、この頃3×3の回転運動がだんだんと手に馴染んできた感がある。これは純正品の大きさと滑らかさによる部分も大きい。10倍の値段でも買って大正解。
手に馴染んだ回転運動ということに関していうと、6面揃えるためのステップの特に序盤(これはおそらく一番たくさん繰り返しているから)などで、完全に自分の手が自分の意志というか思考から離れて、自動的に動いている瞬間がちょっとあったりする。「このキューブをここに持ってこよう」ということをいったん決めて運動をはじめてみると、あとはなにも考えなくてもどんどん勝手に進んでいくというか「頭で考えるより先に手が動く」のような瞬間が、たまに、ほんとにちょっとだけ、ある。
この瞬間について、「じゃあその瞬間は指示出し担当であるところの僕の頭の方は何をしているのか」などということを、今は考えることが出来るけどそれは今がその瞬間ではないからであって、たぶん実際その瞬間は「みるみる動いていく3×3をただただ目で追いかける」くらいのことしかしていないし、たぶんそれしか出来ないんじゃないかとも思う。手を動かすことは出来るけれど、逆に止めることも出来ない。もし仮にこの一連の自動的な手の動きを途中で止めるにはものすごい精神力が必要だし、ものすごいストレスをともなう気がする。だからそういう無理はやらないし、やろうと思ってもきっと出来ない。
それでこの「頭が思考を放棄して手だけが勝手に動いているというほんの一瞬」というのは、意志と関係ないところで体が反応している、または体を意志が操縦できていないという状態のことで、いってみたらこの瞬間、僕は半分意識を失っているようなものではなかろうか。失心している、というのはたぶん極端すぎるけれど、面白いからそう考えることにする。とにかく、そんなふうにはじめと今では回転運動に対する体の感覚が少しずつ変化しているし、体の感覚が特化していくと、たぶん頭の感覚もまったく違うものになっていくようで、そういう新しい芽吹きみたいなものが実感できるのはうれしいし、なにより励みになる。
ネクタイの締め方とか自転車の乗り方とかカンナの刃の手入れとか歌舞伎とか綱渡りとかブラインドタッチとか、あとはなんだ、メーヴェの乗り方(?)とかそういう身体にしか蓄積していかない「技の記憶」という言葉の指すものに、この3×3の回転運動における僕の半失心状態が当てはまるのか、厳密なところは知らないがおそらくそんなに遠くない、そんな気がする。
ところで、回転運動の結果というか目的としての6面揃えの習得に関しては、終盤、最後の2、3手でほとんど毎回つまずくものの、5分くらいあれば何も見なくても6面揃えられるようになってきた。ただし「3×3を揃えられる」のと「3×3を理解している」のはまた全然次元の違う話だという実感がある。もしひたすらこの回転運動を続けていった先に3×3の本当の理解がやってくるとしても、僕にとっては「まだまだずっとずっと先にそんな日があるのかもしれないし、ないかもしれないな」くらいにしか思えない。これからが本番だ。