誰もいない六本木へ

鬼子母神503 ひとんちの赤ん坊

朝起きたら頭の具合が悪いのはすっかりよくなっていたけれど、かといって頭が良くなったわけでもなく、午前中は口を半開きにしたまま、なんとなく過ごす。頭が悪いのは一晩ぐっすり寝ただけではどうにもならない。梨を剥いて食べて出掛ける仕度をする。部屋を出てバスを待ちながら、携帯電話を持っていないことに気づいて部屋に戻る。携帯電話を持って再びバスを待ちながら、今度はネクタイを持っていないことに気づいて部屋に戻る。ネクタイを持って三度バスを待ちながら、今度はチーフを持っていないことに気づいたけれど、あきらめてちょうど来たバスに乗る。
バスと電車で六本木へ。僕が寝ていて行かなかった昨日の夜の集まりは、偶然にもその通り道にある店でやっていたようで、そういえばその店はこのあいだ六本木に来た時に、持て余した時間をつぶすためにたまたま入ってお茶を飲んだ店だった。今日ひとりでその店の脇を通りすぎた時、昨日の夜のその店の様子が暗くなったガラス越しになんとなく見えた、気がして、その光景はとても楽しそうだった。実際にはもうだれもいなかったけれども。
 ア ヤ   ズ エキシビション『バ  ング  ント展』P-House
 http://www.phouse-web.com/
はじめてこの展示のことを知った時に真っ先にうかんだのは「なぜ?」でも「どういう意味?」でも「作者の意図するところはなんであるか」でもなく、「おしっこは?うんこは?」という、芸術とか解釈とかそういうものとはほど遠い俗っぽさ満点の芸能週刊誌的な疑問で、そういうことになっちゃう自分に対して「あぁ芸術…遠いな」と呆れたりもしたのだけれど、やはり自分のその疑問にはどうにもあらがえない吸引力があった。
箱という真っ暗な密室の中ではいろいろな制約があり不都合があるのだろうけれど、なかでも自らの排泄物を自らの〈手〉で処理するということのストレスというか異常性は相当なものじゃなかろうか、とその時思った。しかもその排泄物は自動的にどこかに流れていくこともなく、目の前に積み重ねていくしかない訳で、見方によってはその排泄物の蓄積自体がその箱の中で今まで生きてきたことの証明みたいなものと言えないこともない。箱の中で失われた存在が唯一はきだしていく排泄物の蓄積について考えた時、心の底から「しんどい」と思った。そしてその先にはあきらかに「狂気」が待っているとも思った。
はじめの頃に僕が箱について一番強く感じていたのはそういう「狂気」であって、そういう狂気をまのあたりにする可能性に対する好奇心と恐ろしさだった。この展示を紹介してくれた方々の文章や音声のおかげで、展示それ自体に対してはとても関心を持っていたし、実物を見ないうちからとても面白いとも思っていたけれど、この展示を通して初めて知った飴屋法水さんという作家個人に対しては、感心とか応援というよりも、どちらかといえば憤りに近い感情を抱いたりしていて、もしこの計画の中でなにかが起きて、誰かに悲しい思いをさせたりしたらきっと許せないかも、とか思ったりしていた。失礼な話だけれど、ちょっと怒っていた。
8月6日にP-Houseを初めて訪れてその箱を目の前にした時、じわじわと怖がっていく友達のとなりで、僕は妙な安心感をおぼえたのだけれども、それはやはり、向こう側から帰ってきたノックの音も含めてその場でしか感じ取ることの出来ない「なにかしら」があったからで、僕の頭の中で勝手にでっかくなりすぎていたその箱のイメージを、目の前に〈確かにある〉その箱が修正してくれたからだろう。
8月6日に実物を見てからは、僕が箱以外の自分自身の日常に夢中になっていたというのもあるけれど、ふと箱のことが頭に浮んでくる頻度もそれ以前よりずいぶん減った。そして、そうやって頭にうかんでくる箱から受ける印象も、なんというか、それまでのギスギスした感じが取れていて、なんとなく少し身近に感じるようになったりもしていた。
それでどうしてももう一度、最後にその箱を見ておきたくて、最終日のP-Houseに行ったのだけれど、箱を目の前にして受ける印象は前にもましてクリアというかクリーンというか、禍々しい感情が薄れていて、多少の心配(心配!)はありつつも、柔らかい気持ちで箱の前に立てたのだった。そういう気持ちの変化がどうして起こるのか、じっくり考えていないので今はなんにも書けないいけれど、そういう変化は確かにあって、作品もそうだけれど、そういう変化自体が自分にとって面白く感じた。
変化ということでいうと、会場にきても僕には相変わらず目の前の箱しか見えないわけだけれど、箱を見ながら箱の中にいる飴屋さんという作家の姿というか、イメージというか、存在というか、そういうものの輪郭が前よりもはっきりしてきている気もした。「はっきり」といってもほんとにぼんやりとした「はっきり」で、僕は今でも箱の中の人がどんな顔をしているのかを知らないし、その言葉(文章)も声も未だに一度も見聞きしたことがない。単純に「慣れた」だけということかもしれないし、なんであれそういう人間の勝手な心の働きだと思うのだけれど、とにかくその箱を目の前にした時、あるいは思い浮かべた時、最初に比べたらずいぶんまっとうな「ひとりの人間」の存在を今は感じられたりするのだった。
それで、ノックの誘惑はやっぱりすごい。あそこに行けばどうしたってノックしたくなる。左の耳を壁に押し当てたまま、右手で軽くこぶしを握り少し飛び出させた中指で「トントン」と2回ノックしてみたら、ガサガサという音とともに、なにか(どう考えてもそれは中にいる作家本人でしかないのだけれど、この場合は「なにか」と書いたほうがどうしてもしっくりくる)が今自分が耳を当てていたまさにそこやって来たの気配というより鼓膜から伝わってきた時には、さすがにぞぞっとしたけれど、その後2回ノックの返事があって、それを聞けたらまたなんだかホッとした。それで踏ん切りがついて外に出られた。
おそらくはじめの頃に僕が感じていた「狂気」なんかに負けてしまうほど、飴屋さんの決意とか準備とか精神力とかは貧弱なものじゃなかったことは、今思えば当たり前としか思えないのだけれど、当時そうは思えなかったのは、僕が飴屋さんという人のことをほとんど知らなかったこともあるけれど、僕が飴屋さんのチカラというかひとりの人間のチカラをみくびっていたからだと思うし、逆に僕の想像力のほうだこそ貧弱だったからで、駅までの道を速足で歩きながらそういうことをポツリポツリ考えていると「あぁ」としか言いようのない「あぁ」がやって来るのだった。