時代はかけ算(独り合点)

見送りで空港へ。空港で買ったパンを電車の中で食べながら帰る。
新潮11月号、保坂和志の連載がとにかく面白い。生理的に合うのかもしれないという『ミシェル・レリス日記』(千葉文夫訳 みすず書房)の中からごく短いある日の日記を引用して、たとえ短い文章であっても、その文章の中にある固有名詞らしきものが人の名前であることがわかればじゅうぶんで、それに誘発されてさまざまなことを思い出したりする。というところを読んでいて、「あぁ、かけ算」と思う。
いままで僕は、自分の中に蓄積していく記憶とか知識とかの刺激をなんとなく「たし算」で考えていた。もしかしたらそんなことは考えたこともなかったかもしれない。とにかくその程度の適当に曖昧な認識でそういうものを把握していた。それでも「記憶」という言葉については「蓄積」していくものだと思っていたし、その「蓄積」という言葉から僕は「落ち葉」や「地層」や「“ガムシロを入れて比重を重くしたコーヒー”と“ミルク(植物性)”と“泡立てた牛乳”で3層にしたアイスカフェラテ」のような「積み重なる」イメージを想起する。ということはやはり僕は限りなくたし算的な認識でそういうものを考えていた、のだと思う。それを改めて「かけ算」で考えてみる。そうすると、あるひとつのことから誘発される別の記憶や発想の可能性についてのイメージが「たし算」で考えるよりもずいぶん的確に表されているようで、気づいてみればこっちのほうがなんともしっくりくるのだった。
似たような「かけ算」的考え方は、遅ればせながら最近読んだ『海馬-脳は疲れない』(池谷裕二,糸井重里著 新潮文庫)にもあって、そこでは「記憶の回路は〈べき乗〉で発展していく」というふうに書かれていた。
「なるほど、これからはかけ算かもしれない」と思いつつ、パンをもうひとつ出して食べる。キャラメルとピスタチオの組み合わせが思いのほかおいしい。