梅と米

今日の日中、電車に乗っていて秩父の臘梅園の広告が出ているを見つける。見つけて「そういえばもうそんな季節か」とか思いながら、何日か前に近所の公園の梅祭りの広告をどこかで見ていたことを思い出す。冬とか雪とか寒いとか言ってるうちに、いつの間にか梅とか開花とか春とかそういう言葉が身の回りに増えてきている。そういえば一昨日、「いつの間にか陽も長くなってきているということを声に出して喋っていた」こともついでに思い出す。
昨日の夜、突然米が食べたくなって近所のスーパーで米を2キロ分買った。米と一緒に納豆とちりめんじゃこと焼いてあるギョーザも買った。部屋に帰ってさっそく一合半の米を炊き、買ってきたものと半月ほど前に買ってあって弁当を買ってきて食べるときに食べていた川のりの佃煮をおかずにして米を食べた。米は売っている時はメートル法のくせに炊く時には尺貫法になる。考えてみたら不思議だけれど気にしなければそれがいちばんしっくりくるので気にしない。とにかく昨日はひさしぶりに部屋でご飯を炊いて食べた。
今夜も帰ってきてからご飯を炊く。ギョーザはもう無いけれどそれ以外のおかずは昨日と同じで、米は今日も一合半。今日は特にじゃこがおいしい。山盛りのじゃこをご飯にのっけて頬張って口の中で噛みしめると、カサカサしたじゃこから出てくるかすかな塩気とうまみにご飯の甘みと温かみが合わさる。それを更に噛みしめるところが特においしい。
そんなふうにして夜中にひとりでご飯を食べながら、ふと昼間電車の中で見た梅の広告のことを思い出す。思い出しながらご飯をまた口に運んでいると「自分が突然昨日から、こうして単純なおかずでお米を食べたくなったのは、どこかの山で梅が咲いたからではなかろうか」と思いはじめて、一合半のご飯を食べ終る頃には「たぶんきっとそうに違いない」とまでに思うようになる。広告で見た臘梅のある秩父の山の梅なのかは知らないけれど、きっとどこかの山の梅の開花が僕に米を食べたくさせた。あるいは今日僕が食べた一合半の米に相当する梅が明日の朝咲くのかもしれない。一見すると無茶苦茶だけれど、そういうことがあってもいいと思うし、今が「そういうことがあるとき」なのだと今日は思う。
梅の開花と僕の食欲と炊いた米との関係について、そういうつながりが「ある」ということを証明する術を僕は知らないし、またそれを証明したいという情熱もないのだけれど、僕は「僕ががそう信じているという時点でそれはきっと本当のこと」だと考えていて、それでいいとも思っている。だからといってそれではまた明日も自分でご飯を炊いて食べるか、というと今はまったくわからない。今はただ満腹で、眠いだけ。