市川準監督作品『あおげば尊し』

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映画の中盤でテリー伊藤演じる光一が、父親の寝ているベッドの隣でテストの答案用紙をひろげて採点を始める場面を見ている時に、ふと自分が子供のころ母親のまるつけ(採点)を時々手伝っていたことを思い出した。たぶん小学校の高学年だった頃、実家の居間のテーブルで、別の学校に通う同い年とか年下の知らない小学生が書いたテストの答案に、親から借りたカートリッジ式の赤いサインペンで、マル印やレ点のようなバツ印をつけた。母親の書くマル印をなるべく真似るようにも気をつけた。おそらく風呂掃除や廊下掃除や玄関掃きのような「手伝い」の項目のひとつに、ある時期そんな「まるつけ」があったのだと思う。そういうことを思い出した。
ここ最近はもちろん、過去10年くらいさかのぼってみてもそんなことを思い出した記憶がない。それくらいすっきりさっぱり忘れ去っていたその記憶が、本当にひさしぶりに、あるいはもしかしたらその時以来はじめて、今日この作品のその場面を見ながら再び思い出されたということがちょっとうれしかった。
「まるつけを手伝った」という記憶自体は別にたいして思い出深いことでもないし、現に今までずっとそのことを思い出すこともなく暮らしていられるような、子供のころの「とある記憶」のひとつなのだけれど、そんな記憶でも頭の中にポッと浮かび上がってきたときに「ちょっとうれしい」のはなぜなのだろう。あるいはそういうとるに足らない「とある」過ぎる記憶だったからこそ、そう思ったのかしら。
というか、その時(映画を観ながらそういう記憶が突然よみがえってきた時)に、自分が本当にちょっと「うれしい」と思ったのか、というのももう記憶があやしくて、どちらかといえば驚きと感動が混じった「すごい」という表し方のほうがしっくりくるし、もっというと「血管を血が〈ドクドク〉と流れる感じ」とか「頭の中で〈ザワザワザワ〉という音にならない音のようなものが響く感じ」という表し方のほうがもっとしっくりくる。
なんだか的確に表せば表そうとするほど文字数も増えるし表現も曖昧になっていくけれど、とにかくその場面を見ながら「あ!」と思ったのは確かで、それ以外にもいくつか、この作品を観ながら作品とはまったく関係のない物事を考えたり思い出したりしたのだけれど、だからといってこの作品が退屈だったのかというとまったく逆で、とてもよかった。
上映開始直後は、昨日の夜、間に合わなくて見られなかったレイトショーの『空中庭園』のことがどうしても頭から離れなかったりしたのだけれど、しばらく観ていたらそのうち忘れた。『空中庭園』はまた後でもう一度観に行こうと思っているけれど、もしかしたらこの『あおげば尊し』も、もう一度観にいくかもしれない。
加藤武麻生美代子が演じた光一の両親夫婦の顔がとにかく印象に残った。あの顔をきっとまた観たいと思うようになる気がする。あと「あおげば尊し」っていい歌だ、と改めて思った。